私は、9歳のころインフルエンザになりました。
何故かその時に足の指先が痛くなりました。「痛い・・痛いよ・・」
両親にはその事しか伝えきれず、病院へ行っても『原因不明』でした。
そんな人生の始まりから、39歳の現在までを綴って行ければと思います。
24時間365日縛り付ける痛み。夢は「意識不明」になる事でした。
痛みというものはどこまでもその本人を縛り付けると思います。
ご飯を食べる時間も、お風呂の時間も、寝る時間も「痛み」は常に私の隣にあって
私に休息などありませんでした。いつでもどこでも戦闘態勢。
やがて疲れ果てて【体と心を離別させたい】ーーそう思うようになりました。
頭の中には常に「死」の文字ーー希死念慮が強い日々
「原因不明」それはどこか『お前など理解するにあたらない』そう拒否された気分だった。
休息の時間などありもしない。どんな時どんな瞬間も、痛みは常に隣同士にいる生活。
やがて「朝ごはん何を食べようかな」そんなノリで自殺を考えるようになりました。
「救いなんて訪れない。どうせこのままなのだとしたら29で人生を終わらせよう」
私はやがてそう思うようになりました。
何故このまま生き地獄を味合わなければならないのだろう。
何故?誰の権限で?---私の人生終わらせる瞬間ぐらい自分で決めたい。そう思った。
本当は引きこもりたかった。仕事などしたくなかった。
親に「あんたを食わせるお金なんてうちにはないよ」と言われて仕方なく始めたアルバイトだった。そこで出会った女の子2人が偶然に同い年だったのである。
他人には当たり前にある高校生活、大学生活。
私は中学2年生で引きこもりになっていたので当然そんな経験は皆無だった。
ーーーある時に仲がいい仲間たちと談笑していた時の事である。
みんなで大学のころの話をしていた。私は中卒だったが、本当の事はおくびにも出さず、適当に相槌を打ちながら話を聞いていた。
私も話に入りたくて、中学の頃の話をしようと「私が学生時代の時は・・」そんなことを言った。
A子「ねえ、学生時代ってそれって大学とか行っていた子が使う言葉だよ笑」
ーーー私は衝撃を受けた。ガン!と何かで頭を殴られたぐらい衝撃的だった。
衝撃を受けすぎてショックでたまらなかった。
私は中卒私は中卒私は中卒・・・。ぐるぐるとその事ばかりが頭を埋め尽くした。
悔しさだけではない、悲しみ、言いようのない怒り・・どこへぶつけたらよいかわからない自分への劣等感。その瞬間に様々な気持ちが去来した。
「くっそ・・・絶対に高校は出てやる。どんな形で合っても高校だけは絶対に出てやる」
―――直接的にバカにされたわけじゃないけれど、遠まわしにバカにされたような気がした。悔しくて悔しくてたまらなかった。
「私は事情があって学校へ行けなかった。病気だったから」---そんな風にうんたらかんたら言い訳をするつもりなんて更々ない。あるのは学校に行ってなくて「中卒」だという事実だけだ。
『絶対に出てやる。どんな形で合っても絶対に高校だけは出てやる』
私に確固たる決意が生まれた瞬間だった。
偶然見た番組。そこには定時制高校に通っている生徒たちが映し出されていた。
ほんとに偶然でした。偶然、テレビの前に座っているときに定時制高校での生徒たちの様子を撮影したドキュメンタリー番組が映し出されていました。
「定時制・・?」自分の中で知らなかったわけではないけれど、選択肢としてはなかったものでした。そこには学校に通いながら楽しそうに先生に質問したり、笑顔溢れる生徒たちの様子が映し出されていました。
―――私に光が差したように思えました。
『定時制なら。こんなに楽しそうなら。こんな風に支えてもらえるならこんな私でも通えるかもしれない』『こんな私でも。痛みがあるこんな私でも支えてもらえるかもしれない』
そんな風に思ったのです。
ーーー思った次の日には行動に移していました。
出身中学に連絡をし、定時制に通いたい旨を報告。
見事その年の4月、「県立船橋高校の定時制」の生徒になりました。
10歳以上も年の離れた子たちと一緒に学ぶ学校生活
当時27歳からの学生生活。同級生はみな10歳以上も年の離れた子たちでした。
中には20代の生徒たちもいて、その中に「はじめくん」という男性がいました。
はじめくんは自ら進んで人を引っ張っていくタイプではないけれど、気づいたら人に慕われて牽引しているようなタイプの男の子でした。
私は、「人を引っ張っていくリーダー気質」というものが全く持ってありません。
本当にゼロです(笑)本当は年齢も一番上だったので、そういった役割をしなければ
なならなったかもしれませんが、私には向いていませんでした。
はじめくんは頼りやすいというか、話しやすいというか。
年は下の年齢でしたが、私は随分と頼っていたような気がします。。。
勉強でわからないところがあれば何度も教えてもらっていましたし、私は参加できませんでしたが、「勉強会」というものも開いていたようでした。
結果論として行ってよかった定時制。
なんだかんだと大変なことはあったけど、結果論として行ってよかったと思っています。
テスト勉強をする際、手の指先が痛すぎて勉強できなくて赤点・・なんてこともありましたが、授業で行ったバスケやサッカー。運動と呼べるものとは縁のない生活をしていた私にとってはとても新鮮なものでした。
中でも校庭の中を走るマラソンの授業。。。・・はあはあと息を絶え絶えにしながら、心臓が波打つ感覚。。。「死」を見つめるばかりだった私にとって「生」を感じるものでした。
「ああ、生きてる。私、生きてる。」――そんな風に思って、今ある体に。生きている自分の体がものすごくありがたくて、嬉しくて。とめどない感激を覚えたのを憶えています。
本当にすごく楽しかった!!
後に高校卒業の学歴をいただき、今の会社に出会うのです。
働いて10年。未だに新人のようなやらかしをしますがそれを受け入れてくれる上司たち。
こればかりは出会いに感謝だと思います。
「上司ガチャ」なる言葉もありますが、出会える人を選べるわけではないですからね。
ーーー私の親愛なるMさんだけではない、FさんやKさんという上司にも感謝をしております。色々ご迷惑をかけながら、日々働いております。
Mさんに感じる不思議な感覚。心が通じ合っているような感覚。
上司のMさんはすごく不思議な人です。
私自身は割と「普通」と呼ばれるタイプの人間ではなくて「変わっているタイプ」だという自覚があります。人に言われたわけではないけれど、自分でそんな気がするのです。
そんな経験があるので、あまり人に受け入れてもらえたことがありませんでした。
病気の事もあり、痛みで懸命に生きていたからか、「人に物事を伝える」という事がものすごく苦手です。口下手も手伝って「人に受け入れられる」というものが稀で、自分の中に無いものでした。
上司と部下、単なる職場での関係性です。
働いている中で私はMさんに好意を持ちました。ですが、「好意」と呼ばれるものの他に、Mさんに対して他の感情があるような気がしてなりません。
Mさんに何かしら感じる「縁」みたいなもの。
何故か愛を感じます。友愛というか、親しい人に感じる気持ち・・・
何かしら前世からご縁があったのかもしれません。
私は人が怖いです。言語化するのは難しいけれど、とても怖く感じます。
人とは普通に喋れたりするのですが、何かしら見えない「怖いもの」が私の目の前にあって
心を開けないのです。なので絶対的に私は友人が少ないです。
でも好きな男性にはその「怖さ」を感じない。嫌われるかもしれないだとか、どう思われるのかだとか。他の人間には感じる感情が一切Mさんには感じないのです。
だから「ありのまま」の自分を出せる唯一の人間・・。そういっても過言ではないかもしれません。
現在の私について。英語を勉強するのがすごく楽しい!将来は翻訳家になりたい。
長い間、痛みと戦い続けて、『常に戦闘態勢だった』私でした。
ここ10年くらいは、痛みからも解放されて自由な時間だったように思えます。
けれど『お前は自由だ!』といきなり世間に放り出されてもなにをしたらいいかわかりません。今まで痛みが体を縛り付けていたのでいきなり世間に出されても、自分が何をしたいかだとか、何をするべきなのかとか。全くわからず、しばらくは何もわからない赤ちゃんみたいなものでした。
最近、英語を勉強しています。Twitterでのお友達のEちゃんも英語を勉強しており、私自身刺激を受けながら、学んでいます。
ダラダラと生活する中で出来た「夢」叶わないかもしれないけれど叶えたい、レディ・ガガさんとの対談
学校にいるときはさほど英語が好きではありませんでした。
でも最近YouTubarのkamioくんの動画を見ているうちになんだかフツフツと英語をしゃべりたい。外国のお友達が欲しい。と思うようになりました。
また、私は『線維筋痛症』という全身に痛みが走る病気を抱えているのですが、最近レディー・ガガさんが「線維筋痛症」だという事を公表されました。
ーーーすごく夢は果てしないです。でもすごくあれだけ精力的に活動されているレディ・ガガさんはどんな思いでこの病気と向き合っているのか、日々を過ごしているのか、お話ししたくなりました。
無理かもしれません。でも、ガガさんとお話ししてみたくなりました。
最後に・・。病気を抱えながらでも最後に『笑えれば』いいんじゃないかって。
これまで紆余曲折ありました。
プロジェリアという難病を抱えたアシュリー・ヘギちゃんが言っていた言葉があります。
『私は生まれ変わってもまた私に生まれたいと思うわ』--私は衝撃でした。こんな大変な病気を抱えてるのにそんなこと言えるなんて。。。アシュリーちゃんには頭が下がる思いです。
―――私は私でまた生まれたいでしょうか。この痛みを「線維筋痛症」という痛みを抱えてまた生まれたいかとするならば、答えはNOに近いでしょう。
けれどこの病気だからこそ感じられるものもあったし、学びもあった。けれど想像を絶するこの痛みをまた経験したいなんて、私はとてもじゃないけれどそんな事思えません。
最後に「笑える」人生を。私はこれからも送ってゆきたいと思います。
色々抱えるものがあっても。どんな姿でもどんな形であっても私は生きていきたい。
「私は病気だったからこんなに辛かった」なんてことは言いません。
人それぞれ辛さなんて感じる範囲が違うんですからね。
ただ、こんな人間もいるんだよ。こんな風に生きてる人間もいるよ。と、もし元気がない人がいたら、背中を押せる、そんな人間でありたかったです。
少しでも心に留めるようなそんな存在になれたら嬉しいと思っています。